サバニの誕生

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サバニを定義されたものは無いが、強いて言えば外洋での漁撈や航海に適したものであり、それに適さないものは接ぎ舟と呼ぶのがふさわしいのではないかと思う。サバニは形状を変えないで大きくしたり小さくしたりする造船技法を備えている。戦後、漁が多様化しそれに応じた大きさで造る技法がある。

造られたサバニを寸法取りして造っても、他の漁撈のサバニを造ることが出来なければ、その技法が習得されてなく、サバニモドキといえる。最近は、糸満では伝統的な漁法が無くなり、漁撈が規模の大きい和船型の漁船にかわり、(かつ)てのサバニの存在がなくなった。サバニは糸満の船大工に漁師が漁を通して幾多の要求にこたえて完成された漁船であり、長い漁業の歴史で培われた文化であり後世に文化的存在を継承できるものと確信できる。

改めて明治二十年に明治政府より、沖縄の水産業を調査された資料「沖縄群島水産史(国立国会図書館所蔵)」の内容を一部抜粋(十五項~十六項)すると、

【「沖縄地方に於て従来使用する船は、その唯二様あるのみにして、一つは、サバネ(内地人之を刳り船と云う)と稍し獨木を刳りて、之を(つく)し、(とも)()とは別に木を()へて之を(よそお)えり。是れ主として漁船に充つる者なり。」

「一は、那覇船と稍し、遠海渡航の用に供するのみにして、漁業においては一切之を用いず。」

漁船に使用する()の刳り舟(サバニ)は、杉(ある)いは松を用ゆ。其元材は大抵之を薩隅地方に仰ぎ、本県地方より出すは絶へて之れなし(しこう)の其杉を(もっ)(つく)る者は、凡そ十年間を維持し、松材に係る者は五,六年を過くれば、著しく船体の重量を増加し遠く出漁するには()えずと云う。此の刳舟(サバニ)を行るには一に短(かじ)(長さ凡そ三尺餘幅凡そ四寸許)に(かり)るのみしを()(ゆう)等は共に之れなけれも之を()ること(すこぶ)る巧みなり。()め該船は左右の動揺極めて甚だしく中心を取るの困難なるを以て之れに乗る者は常に船底(舳艫各一人を載す可し)に端座して猥りに起立する事を得ず。若し(みだ)りに起立せば船(たちま)ちにして(てん)(ぷく)す漁夫は常に之に乗して風波を冒し鱶釣漁業の如きは陸を(きょ)る五,六十里の遠きに到る其危険なる事實に名状す可からず。

然れども速力の早きは()(すこぶ)る驚くべく数十里の間と誰も暫時(ざんじ)にして往復する得るを以て漁夫は其危険なるにも(かか)わらず些の改良をも企て(がん)(ぜん)として奮製(ふんせい)を特守せり(ふた)し沿岸磯魚の漁業は此舟を用ゆるも()えて危険なることなく、(かえ)って幾分の軽便を感ずることあるべきも其遠き沖合に出漁するが如きは之を廃して其製り改め安全を計るの最も緊急なるを知る。

其那覇船(マーラン船)と稍する者は、厚き木板を剥ぎて、之を造り(とも)(へさき)の當面は更に▽形の板を()めて之を成す。 

黒く船体を塗り舳の両側に大なる眼形を附し茅を以て織り成せる二(ほばしら)の帆力を(かり)て進航する此船は固とより危弱の製造にして(ふう)(とう)稍し大なれば(たちま)ちにして破損すること毎々之あり(ふた)し該船は元と志那船(ジャンク船)の(つくり)模倣(もほう)したるものなるへきは一見しを疑う處なきが 如し】

この記述から、サバニは接ぎ舟(土着船)に属したものであり、那覇船と称するものは、マーラン船、ひした舟(伝馬船、水汲み船、ハシケ等那覇港内或いは、近隣の浅瀬(外洋に適さない)の漁撈に使用された漁船)も含めたものである。

明治維新前の土着船は大別すると、クリ船(マルキンニ)と接ぎ舟(ハギンニ)に区別できる。刳り舟は原木を斧で刳り貫いて造り、接ぎ舟は原木から木板を採りだし、板を接ぎ合わせて造る。刳り船は材料となる松の木の大きさで形状が決まるので大きさに限界があり、凡そ長さが七m~八m位幅〇,八m位程しかない。接ぎ舟は板の接ぎ合わせで、大きく造れるが、それなりの技術が要求される。それに比べ、刳り船は簡単に造れ、漁船として刳り舟は幅が小さいが、船体の強度は接ぎ目がないので接ぎ舟に比べて強いのである。しかし一八世紀に原木の材料が多く切り倒され、刳り船の造船が規制(一七三七年)されて接ぎ舟に置き換わる。「近世地方経済史科 第十巻(一七二六年に島尻の各間切、一七五九年の中頭の各間切りの剥ぎ舟、刳り舟の隻数が記述されている」(糸満の歴史と文化金城善著)。それによると、糸満では、刳り舟が僅かに七隻のみに対し、原木の多い北部に刳り船や剥ぎ舟の数が多いのである。北部に多い理由として、道路が整備されてなく海上路を利用することで、原木も多いことが刳り船が多く造られたように思える。後に糸満漁船は刳り船から接ぎ舟に変わっていき、当初はひした舟が使用されたが、外洋に適さないことで改良を行い現代に至る接ぎ舟(ハギンニ)が完成されたと思う。

資料の糸満の船の数は、恐らく住民が移住してきて百年ほどしか経ってなく、漁家は十数家しかなかったと思う。漁撈は磯物の海人草や海鼠など漁船はあまり必要とされてなく、僅か七隻でも鮫漁を行い、その後に移住者の増加に伴い漁撈が沖合に展開するようになったと思われる。また北部では、接ぎ舟(主に伝馬船としてのひした舟)造られ、那覇港では、貿易港として、船舶が多く行き交うようになり、接ぎ舟が次第多くなり、船大工が増えたのではないか。完成された接ぎ舟は刳り船に対し高価であり、糸満の漁船は専業の漁船であるが故に、また換金性の高い漁撈が資金の調達を数年かけて蓄えておこなった。昭和の三十年代も小規模の漁師は舟代を蓄えて舟を新造していたことをよく聞いた事がある。

サバニのがどのように造られたかを推測すると、琉球王朝時代の那覇港の様子を「首里那覇港図屏風(沖縄県立博物館所蔵)」や「琉球交易港図屏風(浦添市美術館所蔵)」などから当時の船舶を見ると、土着船と称されるサバニとひした舟を観察する事ができる。ひした舟が落平(うちんだ)にて湧水を採取している水汲み舟(ひした舟)と屋良座森城あたりを航行しているサバニがある。その他にも多様な船舶を観察できる。

前述したように、那覇船とサバニの区別されており、ひした舟とサバニの特徴として、ひした舟は平底で外板が大きく傾斜しており舳艫が大きく開いている。舳先は人や物を乗り入れし易いようにされ、又(とも)は大()が使い易いようになっている。舳先が低い為に外洋に出ると波を被り航行が難しいのである。サバニは船底がひした舟と比べて湾曲しており、舳面は小さく舳先の高さも高い。この様な造りは対波性が良く外洋に向き、推進はエークを使う。また外板はひした舟より垂直に近く、顛覆(てんぷく)しても、元に戻しやすいが、ひした舟は船底が平の為、復元力が無い。糸満の漁師は古文書などには船舶の救難活動に利用された記録が多くあり、外洋に向いた造りである。ではなぜ外洋に適した構造になったか。糸満は漁業を専業とした土地柄であり、豊かな海が存在したが、漁撈者の増加で、糸満以外での漁撈をするようになり、また鮫漁は、肝油を主体とした漁撈であり消費地に直接供給する事で、糸満から外洋にでて、他の消費地に行くのであるから、サバニの様な構造になったと思われる。また換金性の高いイカ漁を行うことで更に、優れた造りに出来上がったのである。 

この様にサバニは外洋にでて、鮫を獲ることで、糸満人が最初にサバニを造ったように思われる。

那覇船(那覇市歴史博物館)

上図は原木から無垢板(一枚板)を剥ぎとる手順である。

2枚以上の無垢板を接合することをハギ(接ぎ)ということからハギンニの呼び方になったようだ。

下図は無垢板で造られたひした舟(伝馬船)である。

下図はひした舟を改良したサバニの原型と思われる舟(沖縄県公文書館所蔵)

下図は接ぎ板(無垢板)で造られたハギンニ

2件のコメント

  1. コメント失礼します。
    こちらの記事を興味深く拝読致しました。
    現在も現役でサバニが使われている地域はあるのでしょうか?
    実際にサバニを見ることができる港がありましたら、教えていただけないでしょうか。宜しくお願い致します。

    1. コメント頂きありがとうございます。現在サバニで漁をしてるのはFRP製で糸満市漁港や八重瀬町港川漁港で見られます

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