糸満ハ-レ-

糸満ハーレー(ユッカヌヒー)は糸満最大の神事である。

【神社とは神様をお招きし、其の場所にお(しず)まりいただいた神様への御奉仕をする場所でありこの神様への御奉仕こそがお祭りなのです。「政」や「務」も「まつりごと」と読みます。此の事から広く社会に奉仕することが「まつり」であることがわかります。】「webサイト神社本庁」より。

糸満では旧暦の五月四日に行われる神事で、糸満の聖地(御嶽)にて神を祀る行事である。琉球国第二王統の尚真王の時代に、聞得大君を頂点とする琉球神道を統一し、ニライカナイから水平降臨する神々を、御嶽で祀る行事を定めたのが糸満のユッカヌヒー信仰行事である。イービンメーと呼ばれる拝所は、神に拝謁し爬龍船競争を行い神に御奉仕(まつり)を行うものである。航海安全、五穀豊穣を氏神に奉仕する爬龍船競争は儀式として爬龍舟にて、海の彼方のニライカナイを目指して海の邪気を払い五穀の種を鳥が羽ばたいて持ってくる様子を櫂さばきで表現し、各村の漕ぎ手の代表が御願バーレーの成果が村の繁栄の証とし報告するのである。

ハーレーの始まりがいつ頃かは、はっきりしたものは無いが糸満に王府の出先である殿内家や神女殿内が配置され、糸満村とよばれた頃に、御嶽であるイービンメーにて祭祀が行われ、王府主催の海神祭をおこなったと思われる。海神祭に使用される爬龍舟は爬龍を模さなければならない。

【中国戦国時代の楚の国にて、屈原という徳の高い賢臣が居たが、周囲の(ねた)み買い、都から追放された。屈原は「魚腹に葬られるとも、何ぞ俗塵に染まん」と言って、五月五日に河に身を投じた。人々は屈原を救うため競って舟を出した。その後屈原の霊を弔うために舟を出し、また竹筒に米を入れ河に投げ入れた。しかしこの供物は蛟龍に奪われために、舟は(こう)(りゅう)払う爬琉(はりゅう)(地を這う龍)模し、供物は葉に包み(ちまき)になったという】「那覇市歴史博物館パンフレット」より

龍は中国では四大霊獣の一つで水の守り神とされ、糸満のハーレ―ブニに模され、権現舟(仮の神舟)としている。十四世紀の後期に南山王弟汪応祖が中国の南京に留学中に観覧して帰国後漫湖にて爬琉船競争を行ったことが始まりとされている。琉球では、儀式で供物としてポーポーやチンビンが供えられ儀式終了後はウサンデーとし人々に分け与えられた。一六三三年に尚放豊王の冊封使杜三策が来琉した時に、糸満地頭南風原間切宮平居住の鄧氏糸満親雲上が米等を王府に献上したことが記録されている。記録を考慮すれば一六〇九年の薩摩侵攻後に集落が出来て神事がなされ、神を祀る儀式が行われたように推測できるものと思われる。神女殿内は前述したように神々に対する神事を行う為の王府の機関である。ハーレーは糸満における記録された文献で最も古いもので、明治二五年に記録されており「糸満市史資料」ハーレーの様子が図柄でも紹介されている。

現在のハーレーは神に対する奉仕活動とされる白銀堂の祭りとして位置付けされているが、ハーレーの呼び方は俗語であり、正式にはユッカヌヒー「旧暦の五月四日」と呼び、琉球王朝時代の年中行事の一環で、糸満では大きな祭祀である。その行事の呼び方は時間の経過と共に「糸満海神祭」から、現在に至る「糸満ハーレー」となった。明治になって日本政府の統治下になって、琉球王府の影響が薄れ、琉球神道が日本神道の影響を受けるようになってからは、神事が双方の混在するものであった。日本の神社の統一政策に伴い白銀堂にも明治時代に波之上神社より分霊された護国の神体が設置され御神体の銅鏡が置かれた。しかし大戦で(ほこら)は消失し現在は鳥居が残っている。行事の神事は御嶽と、神女殿内に移された銅鏡(御神体)を利用している。

ハーレーの語源として、明治四十年(一九〇七年)の「糸満市史資料編Ⅰ」には【長崎在住の中国人が矢張り盛(盛り上げる)に此の遊戯をなし 「排龍排龍」という縣声(あがたこえ)で船を漕いだなどと見えて居りますが、此の排龍という言葉は龍(蛟龍)を遂ふ(追いかける)と云ふ意味でありますが此の遊戯(爬琉船競争)も前に申した屈原という人の為に龍(蛟龍)を遂ふ(追いかける)、という処から起きたこと】と記述されている。(こう)(りゅう)は、糸満では海の邪気なものとされ、漕ぐ舟に、声援として海に浸かっている婦人たちの掛声が「ハレハレ」と大声を出すことで「邪気払い」を行うもので、近年に至ってはディフイ(麾振り)と称する役割を担った人を乗舟させて、邪気を払い、舟を(さしまねく)動作を終着するまで行う。「ハ-レ-」の呼びかたは、戦後生まれの糸満人が普通に話す言葉で、俗語であり、公的な呼称ではない。明治、大正、戦前生まれの人はユッカヌヒ-としか言わなかった。「ハーレ-」という言葉の語源は、戦後生まれの糸満人が公的な用語にしたものである。奄美から伝わってきた事には疑問である。

ハーレーは神人が神々に対するハーレーを始める事の御願を行う。御願は、旧暦の五月一日のチータチウガミで字大里の山川ノロが神々に対して、五月四日のユッカヌヒーの行事の案内と、行事が滞り行われる様に祈願を行う。山川ノロは、【島尻大里ノロ、あるいはタマユシヌウェーヌル(玉寄の御ノロ)などともいわれ、地元である大里はもとより、糸満の村落祭祀とも深い関係がある。「糸満市史」】

チータチウガミで山川ノロが唱えるグイスがハーレー歌に繁栄されている。ユッカヌヒーに先立つ五月三日は祭祀儀礼として勢理腹門中による高嶺拝見による御願があり、糸満市の各御願所も御願した。五月四日のユッカヌヒーの祭祀の始まりの儀式は、、山巓毛にて、神人による開始の儀式を行う。儀式はこの地における各方角に開始の報告を行い、開始の合図を行う。ハーレーの進行の開始は御願ハーレーである。開始の儀礼として、ハーレー歌の二番に、「でぃき城按司の乗る船・・・」と歌われる事から、神人による南山王汪応祖の祖霊に対し村舟に鎮まり頂き、各爬琉船とハーレーシンカのみそぎとして村船を三回廻り開始の旗振り合図を待機する。ハーレー舟は権現化し神舟となる。

ハーレーの歌

一、首里天加那志 百々とぅまり エイヤ末まりよ サーヘンサーヘンサーヨサー 御万人ぬ 間切よ サー 拝み揃りら サーヘンサーヘンサ-ヨ サーサーサー

二、でぃき城御按司ぬ 乗いみせる エイヤ御船よ サーヘンサーヘンサーヨサー 世果報待ち受けてぃよ サー 走ぬ美らさ サーヘンサーヘンサーヨサーサーサー

三、玉寄ぬ御祝女 ただやあや エイヤびらぬよ サーヘンサーヘンサーヨサー 三ケ村男達よ サー 御囲いみそり サーヘンサーヘンサーヨサーサーサー

 訳(糸満市史)

  • 首里の王様は 百歳まで幾久しくお元気でありますよう
  • 国民みんなで仰ぎ拝みましょう
  • でぃきぐしく按司の 乗られる御船は
  • 世果報を待ち受けて その走りの美しさよ
  • 玉寄の御ノロのお力は並々のものではありません

三ヵ村の男たちを どうかご加護ください

ハーレー歌は、琉球王朝時代から続く琉歌であり、伝統神歌で歌詞が「長じゃんな節」と同じ(一番のみ市史より)。航海安全、豊魚、五穀豊穣、子孫繁栄を祈願する格調高い「神歌」である。ハーレーの時期以外は歌ってはならないとされ、アブシバレーから旧暦四月二十七日までの山巓毛にてハーレー鉦が鳴らさるまでは、物音を立ててはいけないとされている。この頃は海の生物の産卵期(クガマイジキ)であり漁は禁止されたようだ。歌の歌詞のヘンサーは鳥が羽ばたくことの意味である。ウェークは鳥の羽を表し、鳥が羽ばたくように漕ぐ。

是は、琉球の伝説で、鶴が稲の種を加えて地上に落とし、後に稲が実り稲作が始まり人々が繁栄したとされている。ハーレーシンカは漕ぐときは(ひざまず)き、背筋を伸ばし、ウェークを跳ね上げて鳥が羽ばたくように漕ぐ。

ハーレーシンカはハーレーギンを着て爬龍舟を漕ぐ。ハーレーギンは紋章をつける。ハーレーの由来は、推測だが、王朝時代に小禄間切の大嶺より伝わってきたものと思う。大嶺の伝統行事にユッカヌヒの地ハーリーがあり、ハーリーが行われていた。戦前まで存在していた大嶺村は当時の日本軍に撤収され、日本軍の飛行場と化し現在は存在しないが伝統行事として地ハーリーが継承されている。糸満市の歴史資料に明治二十四年の五月五日の爬琉船競争を絵図したものがある「糸満市の歴史と文化」(金城善著)。その資料に当時の使用したハーレーギンや鐘・太鼓・旗二種類が絵が画かれている。大嶺村地ハーリーのハーレギンと類似している。大嶺村は、糸満より集落が古く、ハーレーは糸満の赤比儀腹門中の始祖の出身地であり、糸満に伝承されたもの推測する。当時は競争ではなく、神事であったのではないかと思われる。絵図は十二人のハーレーシンカであり、鉦打ちは前を向いており、邪気払いを行っているようだ。又ハーレー舟は、ヒラタ船でハーレー舟専用に造られたものではなかろうか。石取伝馬船と類似している。

1964年に故杉本信夫氏が「糸満ハーレー歌」の聞取り取材したときハーレー歌について、記述された内容がある。取材された内容が「糸満市の昔歌Ⅰ 神歌 ハーリー歌 ウシデーク歌」杉本信夫著 1992年(『南島文化 第14号』沖縄国際大学南島文化研究所 所有)に記載されている(P6,7)。聞取りされた人は、金城牛一(徳前沢岻(とうくめ-たくし))、1982年に玉城亀造(新出(みーんじ)浜元(はまもうと)(ぐわ-))、上原松市(南茂屋(へーむやー))や1967年に久米島の奥武島でハーレー歌の継承者の一人である上原蒲一(西笙(いりー)家来(そーぎれー)、当時63歳)である。 画像は当時の上原蒲一さんである。

ガーエー歌から

1960年代のハーレーは、未だ港の浚渫がされて無く水深が浅かった頃、婦人たちが海に浸かりガーエーを行っていた。そのガーエーは太鼓や鉦を鳴らし「ハーレー ハレハレ」と大声をだした。その意味は“魔物や邪悪は遠くへ飛んでいけ”と云う厄払いである。

ハーレーの語源は “厄払い” の意味と思われる。

上原蒲一(西笙家来:イリーソーギレ)糸満市教育委員会生涯学習課提供

戦前の糸満人の「むんならーし」

『むんならーし』

 糸満市教育委員会に所蔵されている昭和初期のデジタル写真に、老漁師や糸満の有識者(医師)と、糸満の学生徒を前に、経験談や糸満人としての将来について談話している画像がある。おそらく文子氏の手記に記述されてる水産物陳列館での懇談会の様子だと思われる。昭和十二年は糸満漁業組合が、島根県の境港にて出稼ぎに(アギヤー)行っている。日中戦争の為、漁師が少なく水揚げ量が減少することで島根県からの要請で数十名の漁師が漁をしている。その時期は、糸満の漁師は海外移住や出稼ぎ行っており、糸満の人口も少なくなっていた。懇談の内容は、老漁師が海外での漁撈について語られている。漁師としての心構えや、航海術等を習得させ、将来の漁撈の展望について語られたようだ。この様にかつての糸満は、次世代の漁業の発展の礎となる様に後継者の育成に尽力した。

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