仮説糸満南走平家

礫石経

1936年(昭和11年)に糸満市賀数の樋川腹門中墓から発見されたものである。礫石経は平安時代に死者を埋葬する時の経文で、主に丸まった河原石等に書かれている。発見当時はヒラビチバー(平葦墓)とアジシー墓(岩陰を利用したもの)が連結したものであったが墓のコーブン(香盆)の改修の際にイキ(合葬池)の人骨の下部から発見された。石には梵字(インドの古代文字)や平仮名が書かれている。恐らく死者が埋葬された時に使用されたものであろう。時期については専門家の見解は18~19世紀頃としている。しかし樋川腹門中墓は幸地腹門中墓よりも古くイキの下部から発見されている事でかなり古いものと思われる。礫石経は平安時代から、日本本土で埋経という風習であったという。「糸満市字兼城財樋川腹門中墓内発見の礫石経」(沖縄埋文研究2)長嶺均著より。南走平家を語る時、此の発見が(仮説)を裏付け出来るものではないだろうかと思う。糸満に辿り着いた南走平家(仮説)平安時代の風習である兼城賀数の樋川腹門中墓の礫石経が、その時代のものと推測すれば、

糸満の南走平氏について仮説することが出来る。明治時代の糸満の間切り図には、平安時代末期の源平合戦で敗北した南走伊勢平氏(阿波水軍)が糸満に辿り着いたように思われる地名が見られる。治承・寿永の乱の「屋島の戦い」で、源氏の源義経が摂津国の渡辺津から阿波国の、伊勢平氏に味方している桜庭良庭に奇襲を行い打ち破った。更に讃岐国から屋島に進軍し伊勢平氏(阿波水軍)を屋島から彦島に撃退した。屋島の戦いで敗れた伊勢平氏(阿波、山鹿水軍)は壇ノ浦の戦いにて源氏(熊野、河野水軍)と海上戦で敗北し、平家は滅亡した。

合戦後敗れた伊勢平氏は九州各地や、全国に敗走し落人となった。九州から更に奄美大島に逃れ、琉球に辿ったようだ。そして糸満にも辿り着いた形跡を、礫石経や地名で推測する。南下した平氏が、エーンチュ口から入港して、名城海岸や阿波根海岸に上陸したのではないか。二方に分かれ、名城海岸から小波蔵に住み着き、伊敷、波平、伊原、真栄平と居住して行った。地名は伊勢平氏の伊を使って伊敷(石喜)、伊原(石原)とし、阿波平氏の波と平を使い波平、真栄平とした。また、片方の潮平海岸からは潮平、阿波根(根元は阿波国)、座波、波平、東風平(阿波根から東側に位置する)としたのではないか推測する。この連想は礫石経に由来するものである。

源平合戦

1180年平安時代末期に源氏と平家の戦いである。「氏は氏族を表し源氏、平氏、藤原氏、橘氏を源平藤橘(げんぺいとうき)と呼ぶ」平氏とは、時代が遡る781年第50代桓武天皇(別紙平氏系図参照)を祖とし桓武平氏と呼ばれ、高望王以降に平氏が繁栄した。高望王は源氏に従えた関東の坂東平氏と源氏の勢力に押され伊勢に移動して拠点地とし、伊勢平氏と呼ばれた。源氏とは第52代嵯峨天皇(別紙源氏系図参照)を祖とし、公家源氏と武家源氏に分かれる。主な流派は、嵯峨源氏、宇多源氏、村上源氏、清和源氏となる。

源平合戦に登場する清和天皇の清和源氏源頼朝は武家源氏である。南走平家は、これらの氏族が合戦に敗れ全国に落延び、沖縄にも落人となって居住して定住していったのではないか。伊平屋、伊是名、伊江島、久米島、宮古島等最初に離島を中心に辿りついた。その後に本島内の調査を行い本島南部まで居住していった。直接糸満に上陸したかは分からないが、当時の沖縄は人口も少なく原始的な社会であっただろう。平安時代以前の沖縄には当時の内地の様な文化遺跡は見当たらず、自然に適応した原始的社会であったと思われる。只、遣隋使や遣唐使船等が漂着したりして、多少の生活物資が移入したのではないか。

しかしそれが沖縄社会の人々が繁栄していく事には成らなかった筈だ。“伊平屋”を伊勢平家の伊と平と家と読み替える事にすれば、言い伝えが成立する。今帰仁に渡り居住地が確定すれば、本島を陸路にて南下したのではないか?南部には移動し難く、源平合戦に使用した大型の船で南部に移動していったのではないか。糸満の海岸の丘陵には、見張り台と思われる所が何カ所かある。喜屋武の具志川グスク、エーギナ島、山巓毛、タカザキ、ティングスクや兼城の奥間グスクなど海上の船を見張ることを目的とされたような場所がある。

最初は敗走平氏が、源氏の追撃を見張る所として高所に設置したのであろう。後に三山時代の交易時代になると、南蛮貿易船や中国や内地からの船を見張る場所となった。タカザキは現在拝所となっており、言い伝えによると勢理腹門中の人が見張り役を担ったようだ。つまり勢理門中の根元は阿波根であり、グスク時代に糸満に居住していただろう。しかし三山統一から薩摩侵攻までは、糸満港口は船の往来はあったが、その後の船の出入りは那覇港が中心となり糸満の見張り台は大きな役割が無くなったのではないか。グスク時代は南走平氏が土着化し、耕作地を開墾していき、集落を形成していきながら勢力を広げ村、シマ(間切り)形成したのではないだろうか。

糸満港口

貿易港としての糸満港口は、南走平氏が糸満に上陸した事を考慮すれば、九州からの渡海は大型の船舶(唐船、千石船規模の船)であると思われる。接岸し停泊できる場所として奥湾の報得河口の唐船小堀だと推測する。海上のシケにもあまり影響されず長期に停泊が可能であった。

当時の河口は水深が深く大型船(千石船)の停泊には十分な水深があったようだ。そして小型の伝馬船等で曳航して外海に出て往き九州など、内地との往来を行い必要な生活物資が運ばれたのではないか。主に鉄器類で鍋、包丁、鍬、鉈、鎌など。森林の伐採を行い農地開墾して、グスクから村、シマを形成し後に間切りとよばれた地域となり統治者(按司・世の主)が出現したのである。先住人が居住していたと思われる地域は、日本の弥生時代の社会であり、狩猟、採集漁撈、陸稲などであった様に推測する。人口は少なく、落人である渡来平氏(1185年以降)は土着化し、稲作が普及していき人口が増えて、本島南部に多くのシマが出現しやがては中部を平定した首領(舜天王統、英祖王統)が誕生した。

1368年中国は元国から明国となった。私貿易が禁止され皇帝は冊封・進貢策と海禁策を行った。1370年に明国から日本に君臣関係(冊封・朝貢関係)を太宰府の懐良親王に要求して冊封された。その後に琉球中山王察度も1372年に冊封された。日本内地を往来してきた琉球の船は明国への朝貢船として渡航し琉球の対中国との公的な貿易が始まったのである。その時期の船舶は主に和船(千石船級)が主流ではなかったか推測する。同時に外洋に於ける航海術が発達した。その後に明国から大型の船が下賜(1385年)され琉球は東南アジア等との貿易が行われ大交易時代となる。しかし中国に海賊集団が登場すると規模を小さくした船速の速いマーラン船型に変えて、海賊船の被害を逃れた。室町時代に三代将軍足利義満は勘合貿易を行う(1404年)。これまで自由に貿易が出来た琉球は中山・南山・北山が冊封された

琉球は源平合戦から187年の間に三山が統治されて、1429年南山王(他魯毎)が滅び、琉球が統一され琉球王朝が始まった。糸満の貿易口は規模の小さい港となって王府の監視下に置かれた。年貢米や王府輸出品とした海人草、琉球馬、東南アジアからの輸入品の蘇木等が那覇港に海上輸送された。

   

 

  





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