沖縄では漁師のことを俗にウミンチュウという。1960年代の糸満は、明治、大正生まれの人が多く、各家庭の大黒柱であった。
時代と共に、網業の規模が小さくなったりして漁の形態が変わっていった。個別の漁船を所有し、規模の小さい漁が行われ、そして漁の技術が進歩していった。そして次第にサバニも大きくなっていく。海が荒れたりして漁が休みには、海人達が造舟場に集まってきてユンタク(おしゃべり)が始める。漁の情報の交換がなされた。船大工にはとても新鮮な情報であった。
海人のなかには、数年前から舟の新造を計画している人がいて、真剣に話を聞いたりしていた。金融機関からの借り入れをせず数年かけて資金を準備するのである。これは、糸満の海人の習慣であった。費用が準備出来ると、いよいよ実行に係る。色んな人の意見を聞き、舟の規模を決める。当時の漁の種類は海人によって違う。網業は別として、小規模な海藻採り(海人草)や、セーグヮートャ(小エビ漁)、ガイ(蟹)トゥヤー等のイノー内の漁から、珊瑚礁の沖合(ヒシンクシ)の、イビ(海老)カキヤー、タク(タコ)、クブシミトゥヤー、カーミートゥヤー等、中規模から、イカビキ(主にシルイカ「ケンサキイカ」)、夏のトビイカ漁、サーラ(サワラ)ビキ、アカジンビキ、シザービキ、カジキマグロビキ等のトローリング、またサバ(鮫)釣、大規模な、底延縄漁、タテナー漁、と、一年中その時期に応じた漁法で漁を行なう。例えばフカッキ(トビイカ漁)が終わると、十月ごろから漁師によって違うが、イカビキに移る。それに備えて疑似餌を造ったりする。この様な漁の情報は、舟造りにとっては大変貴重であった。
造船に着手となると、船大工、漁師はサバニの種類を決め、そして大きさを決める打ち合わせを行う。先ず舟幅(ハイ)、舟長さ(ナギ)舟高さ(スーダキ)など決め金額を決める。そして夕方には船大工の家にて三,四人の海人で酒盛りを始める。カリー(縁起)を付ける。
海人が舟を造るのは、漁師生活の最大のイベントである。生活費を切り詰めて、やっとの思いで新造するのである。宴もたけなわ泡盛で酔いが深まると、船主には思いを抑えきれず嬉し涙を流した。漁船は海に出れば守り神と化す。生活の糧を舟に託し、大漁を常に願い、家族に福をもたらす事を心に持ち続けるのである。
トビウオ、トビイカ
近年、夏に糸満でよく食された、トビウオやトビイカを食べたことがない。。何故かとても不思議である。集団漁撈(パンタタカー)しか水揚げできないのでコストが高く適度な値段が付か無いそうだ。しかし、庶民にしてはマグロよりおいしいという人も少なくない。現代の人々から見放されたトビウオ、トビイカはもう食できないのであろうか。若い世代は美味しい魚を食べたことないと過去の人々は思っている。明治、大正、昭和初期の戦前生まれの人達は、親の獲ってきた売れにくいトビウオを沢山食べたそうだ。午前中に新鮮なトビウオ、トビイカは、一度に、鍋にいれて調理したそうだ。当時は冷蔵庫や便利なコンロがなく、まきを焚いて一日分のおかずにした。戦後間もない世代も、よく同じように食べたものだ。それが何故か飽きることはなくおいしく食べた。食事が始まるといつも親が食べるのも目の当たりにする。魚の頭を口の中に丸ごと入れてそしてチューウチュウーと音をたて身を吸出し骨をポロポロ口から出してくる。何度か真似をしたが骨が口に刺さり魚の味がわからなくなるのでいつも途中でやめた。当時の世代人々は、現代の料理と比べる。外観はとてもおいしいそうだが子供の頃に食べた魚や野菜に比べたら素材の味がしないのである。現在の食材は殆ど加工されたものであり旨味が落ちる。残念であるが時代の変化に合わせるべきなのかもう一度あの頃食べたトビウオ、トビイカ料理を食べてみたいのである。