ミーカガン(水中眼鏡)

ミーカガンについて

ミーカガンは水中眼鏡の事を指す。明治十四年糸満の漁師玉城保太郎(屋号鍋佐一八五四年生)によって考案された(「糸満研究」玉城五郎著)。その時の内容が保太郎の次女の長田文子氏の手記に記述されている。明治十七年頃に八重山にて使用されたとなっているが、五郎氏(保太郎の実弟屋号玉鍋佐)の記述が正確と思われる。

当時の糸満漁師は一八七九年(沖縄の廃藩置県)に福岡県八女から来沖してきた古賀辰四郎が夜光貝の採取で、糸満の多くの漁師と共に八重山に出稼ぎ漁に行った。古賀辰四郎は来沖当時の事を履歴「古賀善次著」に残している。その内容を抜粋すると、「沖縄県下ニ来リ海産物ノ採集に従事シタルハ明治一二年二月ニシテ時恰モ琉球藩ヲ廃シ沖縄縣ヲ置キタル年ニ属セリ是ヨリ先本人ハ沖縄各群島ニハ必スヤ幾多有用ノ海産物ノ蔵畜アルヘキヲ想ヒ興行ノ意ヲ決シテ本島ニ来航スルニ至レリ其着スルヤ自ラ沿岸ヲ巡視シ漁夫ヲ(やとい)ヒテ海中ヲ探ラシメタルニ果タシテ産物ノ豊富タルヲ認メ(ここ)ニハジメテ本業ニ従事スルノ端緒ヲ開ケリ当時本島ニ於ケル一般ノ民度尚未ダ幼稚ニシテ就中経済思想発達セス是等天産物ヲ利用スルニ念、殆ンドナク僅ニ自給自足ヲ以テ満足セルノ状態ニ在リシガ故ニ海中ノ産物ヲ採収スルモノナキノミナラス彼ノ工業用トシテ高価ノ販路ヲ有スル貝類則チ夜光貝、高瀬貝、廣瀬貝等ノ如莫大ノ貝殻ハ唯其肉ヲ食シタルノミニテ之ヲ放棄シ(いささ)カモ愛惜スル所ナキノ有様ナリキ本人ハ先是等ノ状態ヲ目撃シテ概歓シ本島ノ海産物ヲ採収シ之ヲ利用シテ国家ノ福利ヲ増シ県民ノ経済ヲ進メサルヘカラズトナレ爾来三十年間ノ星霜ヲ此ノ目的ノ爲ニ消費シ其間幾多ノ辛酸ヲ甞メ労苦ト闘ヒ経営ノ多クヲ盡シ以て本県人民海産業ノ有利ナルヲシラシメ兼ネテ県下ノ無人島タル尖閣列島ノ経営及ビ沖ノ神島ニ於ケル事業ノ基礎ヲ作ルコトヲ得タリ・・・以下省略」

此の内容では、漁夫を雇い海中を探したと記述されているが誰を雇ったか何処の海とは無いが、恐らくその時に玉城保太郎と出会ったと思われる(古賀二十一歳、保太郎二十四歳頃)。陸上の貝殻は回収しつくされていたので、古賀は海中の殻を回収し大阪の兄から神戸の外国人の貿易商によって海外へ輸出され、古賀は大きな利益を得たのである。では、夜光貝が何故海外に輸出されたか? 明治八年(一八七五輸出された品目の中から、注目される物を抜粋して今後の主要輸出品目にしようとした「沖縄物産志」。それは海外に輸出されている海産物の中で(貝殻や鱶鰭等)明治八年に夜光貝殻等を取り上げて米国の万国博覧会に出品したところ好評となり、早速鹿児島寄留人に貝殻を集めてさせ、神戸と横浜に出荷したが、東京のある人物が外国人の知人よりイギリスから貝殻の加工機械を購入して製造するとのことで、貝殻十俵と五拾円を添えて引き渡したが、貝殻が不良品(直火された物)だとし金と、貝殻を売り払って行方をくらましたのである。後に内務省より出張している谷口栄吉が鹿児島から来沖したのでこの出来事の処理と、再度貝殻を集め神戸港に輸送したのである。そして輸出した貝殻が大きな収益をもたらし、本格的な夜光貝の生産が始まったのである。夜光貝殻は琉球王府の朝貢品の中で最も高級な螺鈿細工に使用され、江戸幕府や明や清国に献上されていた。また冊封史の来琉時にも身肉が食事に珍重された。貝殻の大量輸出になったのは、明治三年(一八七一年)にイギリス人の若者マーカスサミュェル(一八五三年生の一八歳)が湘南海岸にて漁師の貝漁をみていたところ、其の貝殻(アワビの殻)の美しさに魅かれロンドンの父親に貝殻を送り、ロンドンの街で装飾したものを売り歩いたところ飛ぶように売れた。それが元に、横浜にて「サミェル商会」を設立し日本の雑貨類をイギリスに輸出したり、イギリスから工業製品等を輸入したり、東南アジアなどと貿易を行い商売を大きくし、そして一八七〇年頃から石油の需要が始まることで貝殻等の商売で得た財を、石油の採掘に(一八八〇年)投資し成功するのである(インドネシアのボルネオ島)。サミュエルがイギリスに送った貝殻は洋服のボタンの材料に利用された。糸満漁師がミ-カガンの登場で鮫漁中心の漁撈から夜光貝の採取漁に変わり大量に採取し輸出し外貨獲得に貢献するのである。鮫漁は、明治維新前は琉球の経済上主要産物としてされており鱶鰭は乾物として薩摩商人に売り、身肉は蒲鉾などの原料として売り米袋などに替え、肝臓からとれる肝油が灯油として売られた「沖縄群島水産史」。糸満漁師の漁業は長い間の鮫漁からミ-カガンの登場で大規模な網漁(追込み漁など)が時代の変化と共に新たな漁撈に変る。

島エジソンと呼ばれた玉城保太郎

一八世紀中ごろに起きたイギリスの産業革命はイギリスの経済を発展させ、世界中に存在感をもたらした。紡績機械やワットの蒸気機関が実用化され、アメリカで一八〇七年に蒸気船が発明され、帆船から蒸気船に変わっていき、外国への船舶の往来が便利になったのである。これらの技術の進歩は発展途上の国々の植民地化が加速し、日本や中国を震撼させたのある。この様な技術の進歩が貿易の不均衡の取引の末におきた戦争(一八四〇年)から、日本の鎖国政策を脅かし、様々な事件を起こしていくのであった。産業革命以降工業技術が発展し、最新の武器を手にしたヨーロッパ列強国は海外に富を求めるようになるのである。そして日本は開国となり諸外国との貿易が盛んになっていくのであった。

この様な社会情勢に的確に対応できた玉城保太郎は一八八一年(明治一四年)頃に、ミ-カガンや漁具を考案し時代にあった仕事をし、糸満の漁業の発展に大きく貢献している。ミ-カガンの登場は外国に貝殻などの輸出や、糸満に新たな漁撈(追込み漁)を発展させ国内外に漁場を拡充させていくのである。

ミ-カガンに使用されたガラス(透明板ガラス)は国内では生産がされてなく外国産が使われたようだ。保太郎がガラスを調達できたのは恐らく古賀辰四郎が内地の外国商を通して手にしたものと思われる。保太郎式と言えるミ-カガンは、胴体がモンパノキ(方言名ハマス-キ)を使い顔との接触面が広く真鍮製やゴム製(海軍工作局製)に比べて気密性があったようだ。明治十七年頃には八重山諸島では夜光貝の採取はピークを迎えておりミーカガンの数も多数使用されているものと思われることから考案されたのは古賀が八重山諸島に出向く明治十四年と思われる。

島エジソンと呼ばれた玉城保太郎50歳(鍋佐)明治36年動物学雑誌15巻

夜光貝殻の採取で大きな役割を担ったミーカガンは、どのような過程で完成されただろうか。日本に於ける水中の作業で潜水器が導入されたのは、安政四年(一八五七年)に外国製のヘルメット潜水器が導入された。明治五年(一八七二年)には海軍工作局にて日本製が製造された。同年イギリス製のヘルメット潜水器が一〇台輸入されアワビ漁にも使用されて、後にアワビが乱獲によって枯渇してしまうのであった。夜光貝殻も、ミーカガンによる採取が、アワビ漁と同じく乱獲により枯渇してしまう。その後に糸満では大型の網を使って行う追込み漁が発達し、明治後期には糸満におけるサバニが八〇〇隻に及び、追込み漁が県内外に進出していった。県内に於ては沖縄の大消費地の那覇にイノー魚やグルクン、トビウオ等大衆魚が、現在の東町に直接水揚げされ、糸満人集落が形成され、那覇を中心に展開する漁になった。大型の動力船が導入され、集団で行う追込み漁アギヤーワザ(沖合漁)が発達した。那覇以外にも小規模な追込み漁で各地域に出稼ぎ漁が行われる。県外に於ても奄美群島や、九州などに進出している。糸満における明治のサバニの数が多くなったのは、沖縄における人口の増加や、糸満漁師が換金性の高い漁を行い、サバニの調達ができる資金を蓄えきれたからである。一度に大量の魚を水揚げできる網業は人々が魚を多く食することが出来る様になり、糸満からカミアキネーを営む婦人達が那覇で商売行って、生産から消費までの流通システムを構築できたからである。そして明治における糸満の漁業は大きく発展していくのである。この様にミーカガンが網業を大きく発展させたのは、明治維新後の日本の経済が資本主義に基づいた資金を調達し易い社会になり、糸満の漁業に大きく影響を与えたからである。明治維新後の糸満における人々の生活は夜光貝の採取が漁の発展を促しミーカガンが大きな資本を導入できる漁業になり、漁業の近代化がおきたのである。     

海学校

ミ-カガンの登場は大型の追込み漁を行うことが糸満の人々に人材不足を招く。元来糸満には耕地が少なく殆ど漁業で生計が成り立つ所であり、獲れた水産物は換金され貨幣が流通する社会であった。大型の網業はパンタタカー(海面を漁師が泳ぎながら叩きスルシカーと呼ばれるもので魚を網に追い込む事)を多く必要とされ、元服期(糸満では十二歳)を過ぎた少年たちが多く担った。明治の教育制度は小学校四年で卒業する事が出来、糸満では漁師にかりだされた。漁師として先ず、泳ぎ方や潜水の訓練を習得させられた。それが今ではよく言われる海学校である。親が漁師である子供は幼少のころから海に馴染んでおり、漁を行うことが出来る術の訓練をうけて漁師と成るのである。本格的に追込み業に携わり成人過ぎる頃は、肺が大きくなり網業に適応した身体になるのである。海中に潜れる人で四十尋(約六十メートル)ぐらいは潜った事話す漁師がいた。戦後糸満で香港に海産物を運んで香港商売を行っていた糸満漁師が台湾海峡に於て中国から台湾に行く途中の貨物船がスクリュウーにロープが絡み漂流していたので潜ってロープを外してあげたそうだ。そのお礼として積んでいた荷物から陶磁器らしきものを差し出されたようだが、「海では救難救助は当たり前だとしてそのまま立ち去った(屋号徳大串玉城徳一)」。この出来事は糸満漁師が潜水に優れていることを証明するものである。戦後生まれのアンブサー(小規模網業を営む人)の息子に、海で昼食時に親に弁当を海中に放り込まれ、放り込まれた弁当を取りに潜らされことがあった話を聞いたことがある。「弁当を取れなければ昼飯はなしと言われ必死に潜った」語っていた。また潜水中に鮫に遭遇して驚いて舟に駆け上ろうとしたら親に「鮫が人を食うものではない、鮫は人が食うものだ」(安全な鮫)と云われ再び海中にもどされた。この様なことは、追込み漁の導入により、潜り泳法の術を産み出し、海に携わる為の精神と体力を習得することであった。

鮫の恐怖

糸満人の事を、イチマナーと呼ばれていた。イトマンの呼び名は、「魚獲人」が、訛ってイチマナーと呼ばれたように思う。糸満の言葉にすると、イユトゥヤーになるが別の呼びかたでは、イユチカマーとも言える。明治中期ごろに大型の追込み漁が始まるのに、人手不足により、糸満で十二才にもなれば元服とし、殆どが漁師に駆り立てられた。当時は能力の有無に関わらず従事させられたようだ。先ず潜水泳法を身につけさせ、身体を頑強に鍛え、徐々に海に馴染ませて漁に従事させるのである。最初の頃は追込み漁のパンタタカーで、成人してからは航海術や漁の手法を学び一人前の漁師と成る。海をよく知る必要が要求され、海の怖さを知ることで海で生きてゆく術を得るのである。陸上で生きていくのと比較にならない程、海では常に危険を伴う。尤も恐ろしいのは鮫による咬傷である。明治三九年に、恩納村谷茶沖一里の海で鮫の咬傷で死亡事故が起きた。漁師二十五名サバニ十一隻で操業中遊泳中の一人が鮫に襲われ死亡した。同漁撈者の証言によると襲われたとき直ちに舟を漕ぎ寄せて救助したが、すでに三カ所手足を咬まれており救急処置を施したが一時間後に死亡したという。咬傷は右腕中央部が皮肉剥脱して骨が露出し、左足下脹脛中央部に骨が破砕断離、右足背部皮肉剥脱咬傷され非常に無惨な状態だったと記述されている「糸満市史資料編1近代新聞資料」。鮫の咬傷は我々の親の世代の人の中にも腹部を咬まれた傷あとを見せてもらったことがある。昭和四十年ころ鮫漁が専業の漁師玉城氏(通称マカビーヤ)に時々近くの海に鮫漁の仕掛けに連れていかれたことがある。その人は鮫を釣ってくると陸揚げされた鮫の歯を取り出し新聞紙や紙を準備させ切れ味を見せてくれた。紙は剃刀にも劣らぬ切れ味だった。またヒーカーキアンブシ(建干網)にイッチヨウサバ(ホオジロサメ)が網に掛り舟にも載せられない程(約三、四メートル五百キロ位)の鮫が陸揚げられた。それを見たときは海で泳ぐことの恐怖を覚えた。プロの漁師でも常に注意していることだと話していた。鮫には人を襲わない鮫もいるが、海ではとても危険なものである。一九八一年に伊江島沖で延縄にかかったホオジロサメは体長五メートル体重約一八〇〇キロ位で胃袋からジンベエザメの脊椎骨がでてきたと報道された。糸満の漁師は海中での遊泳中にはよく遭遇したと聞いた。明治中期ごろから追込み漁が始まったころは鮫による被害が多くあったように思われる。それ以後に海中での漁(追込み漁以外)はダイナマイト(通称ハッパ)を使って行うことが多くなったようだ。

鍋佐家系図

下図は玉城保太郎三代の系図であり、保太郎の次女で「父を偲びて」の著者長田文子氏を赤字で示す。

町ン門

時は一九六〇年代、真夏の暑い日差しに焼き尽された肌の色は小麦色から、こげ茶色に変る頃の糸満は夏の終わりの訪れを感じるさせる風情だ。夏の終わりのマチンジョー(町ン門)は、にわかに夏に別れを告げる雰囲気になる。夕陽が、一日の終わりを幕が閉じていくかのように光が(じょう)小の通りに眩しくさし込んでくる。人影も次第に大きくなり、影を長く伸ばした光は、周りの色を塗り替えて来る。それが意図的に行われたが如く、周りを金色に染め、あたりを優しく光が包みこんでいく。行き交う人々は、時間に追われてるようで足早に過去る。一日の終わりに間に合わせようとしているのか。

近くの家々から色々声が聞こえて来る。食事の支度をしているのであろう、子供に料理の手伝いを頼んでいるようだ。“醤油が無いから隣から借りておいで”と聞こえた。また海から帰ってきた海人が“湯を沸かしてくれ”とか、魚を油で揚げる音とその香ばしい匂いも漂ってくる。この頃の家は木造建築で、雨戸だけの戸締りであり、普段は開けっ放しであるから話声は筒抜けである。一日が終わる準備に思える。夕陽は人々のいそがしさとは無縁に足早に水平線の彼方を目指して落ちてゆく。麦わら帽に手ぬぐい(タオル)を巻いた職人さんがセーク(大工)道具を荷台に載せ仕事帰りの自転車にのって夕陽に染まりながら横切っていった。港の水面(みなも)が金色にきらきらと輝き始めた。ボラがいきよいよく跳ねるとサバニが港へ入ってきた。水面(みなも)を揺らし、光が眩しく目にはいる。港の隅に停泊していた大型のスビナー船(マグロ船)の煙突からは煙が(かす)かに上がっている。夕陽は、更に辺りを黄金色に染めついに水平線にたどり着いた。光がくじら工場や港、門通りを一直線に光で包み込む。夕陽は水面(みなも)の色をさらに変え空の雲を茜色に染め始めた。(はま)(ぐゎー)に近くの人達が集まってきた。老人と若い人である。ある老人が家から腰掛けを持ち出し、うちわを手にしている。若い人が水面(みなも)に石を投げて遊び始めた。大きな笑い声をあげて騒ぐ。夕陽も水平線の彼方へ沈んだ。空がだんだんと、夕焼け雲に変わり始めた。光の演武の終わりを告げるかのように空の雲を赤く染め、そして周りの景色を褐色に変ていった。夕陽は何か叫んでいるかのように更に空から光を消し去り、それを待っていたかのように真上の空の色が薄いブルーに変り始めた。心なしか風がスッと通り抜ける。浜風が吹き始めたのであろうか、水平線の彼方は真っ赤に染っていた雲がうす暗い色にかわりはじめた。落日は終焉の時をむかえたようだ。

時を、明治の糸満にタイムスリップしてみよう。長田文子氏の手記から明治の三十六年頃の糸満の様子が記述されている。玉城保太郎は子供達に浮き輪を造ってあげたそうだ。当時糸満では、子供達に海で泳ぐことを教えたそうで、海で溺れたり事故に合わない様にする為だった様だ。白銀堂から山巓毛までは砂浜になっており、現在の国道が浜辺だった。上の平、マチンカー周辺や新屋敷、新島等高地以外は海であり、現在でいえば、プライベートビーチと言える。夏の暑い日に海で泳ぐ子供達の様子を思い描けば、そこはまさに楽園だ。澄み切った海の足元は白い砂が舞い上がり、小魚が飛び跳ねる。海を汚すものがないので海水はいつも澄み切っていたのではないか。いつも泳ぎながら子供たちは夕陽を眺めていたかもしれない。昔から糸満には美女が多いと言われている。糸満市史資料編Ⅰにも記述されている。目がぱっちり大きく、背筋が真直ぐ伸び骨格がしっかりしていると紹介されている。豊かな自然環境や魚介類からとれる豊富なタンパク質やカルシウムを摂取し、精神的な面でも豊かな環境で育っていたからだろう。物質的な豊かさは無いが、現代の様なストレスに追われる生活と比べることは出来ないのである。顔の表情や身体も充実したものであったのであろう。その後は波乱に満ちた社会となるのではあるが、糸満の人々は現在に至り、誇り高い生活文化・歴史を築く事になる。