サバニ(鮫漁舟)

サバニの呼び方は、正式にはサバンニと呼ぶ。方言で鮫はサバと呼び、舟はンニと呼ぶ。

此の呼び方は、俗語であり、沖縄の通常の呼び方である。琉球処分(廃藩置県)後の沖縄の言葉が共通語に置き換わっていくにのに、次第に文献に使われる様になると、サバンニを漢字にした呼び方がサバネ((さめ)(ふね))で、サバニが共通語では「ふ」を省いたサバネ(サバニを直訳)と使用されている。ンニの使われ方は ハキンニ(接ぎ舟)、マルキンニ(丸木舟)、つまり小形の舟の呼び方に使われている。共通語では(さめ)(ふか)とも呼ぶ。河原田盛美の著書「沖縄物産志」によると、鱶は九州で呼ばれており、東国(九州以北)では鮫と呼ばれているのが多いと記述されている。沖縄(糸満での呼び方)で「(ふか)(ひれ)」を俗語に使うことはなく、沖縄ではサバンハニ(漢字にすると鮫羽(さめはね))と呼ぶ。おそらく糸満で普通に使われた俗語である。大正十四年に石垣出身の国学者宮良(みやなが)(まさ)(もり)は「三田評論」第三百四十号の「糸満紀行」で、「丸木を削り、刳って長さ約四間、幅三尺、深さ一尺五寸のサバニ((ふか)(ふね)の儀)と云ふ」と書いてある。(ふか)(さめ)も同一であるから、方言の呼び方を漢字にしている。沖縄では(特に糸満では)マグロ船をスビナー船と呼び、カツオ船を、カツー船、延縄船をヘーナーブニ、爬龍舟をハーレーブニ(糸満での呼び方)と呼ぶ。サバニは方言でありサバネは共通語に直した呼び方になる。サバニはマルキンニ(クリ船)を使用し、主に鮫漁に使われたものがサバニと呼ばれる様になったと思う。マルキンニは1737年に琉球王府「山奉行所規模帳」には、大木を原料として刳りいて造船する事を禁止しており、原木を剥離した木板を利用したハギンニを造るように規制した。その後に現在に至るハギンニが誕生したと思われる。

沖縄における鮫漁について、明治二十一年に記述されている「沖縄群島水産史」によれば鮫漁は全縣下(主に糸満漁師の出稼ぎ)で漁がされており、捕獲した鮫はその場か海上で、解体し寄港した時に鱶鰭は干物にし内地人に販売し、魚肉を売って米袋に替えた。また、鮫油(肝臓油)は灯油にした。この鮫漁は沖縄県の経済上主要産物として位置付けられていたと記述されている。特に糸満では多くの漁師が鮫漁に関わっておりその様子が記述されている。その後に一八八〇年頃から石油が出回り、次第に鮫油が石油に置き換わっていく。鮫漁の鮫油は需要が少なくなり鱶鰭と魚肉が供給された。その頃から夜光貝の漁獲が盛んに行われ、鮫漁から夜光貝の採取漁が主な漁撈に変わっていく。明治の後期には鮫漁や夜光貝の採取漁が減少し、カツオ漁やミーカガンの登場で網漁(追い込み漁)が新たに始まるのである。カツオ漁はかつお節の生産に使われ、サバニから和船型の動力船に変わっていく。しかしサバニの呼びかたは、どの様な漁でも(主な漁船は当時くり舟か接ぎ舟)サバニの呼びかたになされ、沖縄での木造小型漁船(動力を使わないくり舟、接ぎ舟)は通称サバニと呼んだ。これが定着して戦後にエンジンを搭載した規模の大きな接ぎ舟や戦前に南洋諸島で考案された南洋ハギもそのままサバニと呼ばれた。

明治時代に記録されたサバニ 

明治初期の沖縄の漁船については「沖縄群島水産史」に記述されたものに漁船について那覇舟とサバニと区別している。那覇舟は港内で利用されるのが主で沖で利用するのには難しいとされ、サバニは外洋に適したものと記されている。那覇舟は荷物の運搬や人を載せたり、又湧水を運んだり、那覇港内及び近隣の浅瀬などの漁に使われていたようだ。サバニは外洋に適した構造になっており、明治中期(一八九三年)には、沖縄島の糸満から漁師七名でサバニとマ-ラン船で八重山諸島の魚釣島まで夜光貝採取に帆走した。島に羽毛採取に雇われた四人が置き去りされたのを救助し那覇港まで七日かけて航海し送り届けている「南島探検」。糸満から四一〇㎞も遠く離れた尖閣列島にサバニで、帆と櫂による人力で往復航海している。また明治三十五年に起きた「糸満市史資料編1近代新聞資料」イカ漁に出たサバニ島尻、中頭郡三百四十一隻(八百人)が暴風に遭遇し、三日後に島尻郡の出漁船二百六十八隻の内、二百六十一隻が帰着している。また中城沖約八十五浬(一五七㎞)まで流された二隻(六人)の漁船が救助されている。この出来事はいかにサバニが外洋に適した舟であり、糸満漁師の航海術が優れているかを証明するものである。現在に至るまでサバニが、構造的に形を変えず存在しているのは優れた性能であるから、継承されているのである。

【明治三十五年に起きた沖縄のイカ釣り漁船(サバニ)の遭難記録「糸満市史資料編1近代新聞資料」三百四十一隻中糸満のサバニ、百八十二隻人員三六六人が遭難し、三隻不明五人となっている。その後離島に於て漂着している。】

明治の糸満のサバニの数

明治42年の糸満に於けるサバニの数が大正12年に発行された「島尻郡治要覧」によると832隻と記述されている。その後は、糸満以外の地域に出稼ぎや、移住などで減少するも、漁業で糸満が大きく繁栄したものの証である。下図は当時の標準的なサバニと鮫からとれる産物の図と帆の操作をしている漁師である。

明治三十六年箕作佳吉率いる動物採取調査団が帰那覇の際に、糸満から那覇の壺川まで、サバニで帰った時の様子を記述している「我々のサバニは九時半出帆、鍋佐其他(そのた)(みぎわ)迄送り来る。(第五版寫眞第七)(この)()風相応に強くサバニの速力中々にして先ず七ノット位と鑑定する。(その)波を切り進行する状況は愉快なれども如何にも顚覆(てんぷく)しそうにして安き思はなかりき。寫眞第七は(この)疾行中は余は船の前部にありて艦なる船夫を撮影したるなり、左の隅に横はるは古賀氏の肩なり。二時間の船行の後十一時半那覇に到着」(動物学雑誌15巻)その時に漁師が帆の操作をたくみに操る様子を雑誌の写真画像にしている。

南洋ハギの誕生

 沖縄の方言で漁師をウミンチューと呼ぶ。漢字で書くと海人となる。では農業を営む人は百姓だが、方言ではハルサーと呼ぶ。漢字で書くと畑人と書くことになるのか?我々戦後生まれは親達が話す言葉を少し頭に記憶しているが、漁業に従事している人を、ウミワザサーを云ってた様に思う。そしてウミワザ以外の仕事をアギワザと言っていた様に記憶している。昭和三七、八年頃だと思うが世の中が不況で魚の値段が安く、漁しても生計が成り立たない時があり、ウミンチュー達がフニヤー(造舟場)に来て話をしてるのを覚えている。「ナマカラヤ、アギワザルナイル(これからは、漁師以外の仕事するしかない)」と言ったり、当時漁に行かない漁師は、「サンバシヌ、ニーカタミヤールナイッサー(港の荷役作業)」とか、「トンドー(通堂)ワザ」と言っていた。その頃のから漁師を辞めていく人が多かったようだ。ウミンチューという言葉は、ウミンチュー以外の人たちがよく使う言葉だったように思う。私の父親は船大工で、小学四年生で学校を終え海人になり、戦前に(一九二九年頃)サイパン島に家族で移住し、パラオにて、マグロ船やカツオ船に従事している。

漁閑期に、漁をするつもりで舟を造ったのが船大工の始まりで、造ってうかべたら思ったより良く出来ており、仲間からも造ってくれるように頼まれ、毎年の漁閑期には舟を造るようになり、10年間で50隻ほどのサバニを造ったようだ。それが南洋ハギと呼ばれるサバニである。本ハギとは形状が似ているが、木板を張り合わす板付き舟で、張り合わせに佚くぎを使用する。当時現地にて、沖縄からカツオ船を組みたてにきた船大工から材料を調達した様に思われ、板の合わせは接着材(桐脂)を使用したと思う。

糸満ハギの種類

終戦直後の糸満は、海外移住や出稼ぎから戻ってきた人たちが、焦土化した沖縄で漁業を始めるが、戦争で漁船が消失してしまい食料不足に陥ってる糸満漁師は早急に漁を始めなければならなった。初めに取り組んだのは米軍の払下げられた上陸舟艇をカツオ船やマグロ船に改造して八重山諸島などで漁をはじめた。また戦時中に沈んだ漁船なども引き上げ修理して使った。サイパン島から引き揚げてきた大城松助は改造カツオ船(上陸用舟艇)に二年間従事した後、南洋ハギの造船依頼が多かったので、漁師を止めて、壊れた家屋などの材料や、沈んだ船から板をはぎ取って南洋ハギを造った。当時は南洋ハギは使う接着剤が不足で水漏れが多い欠点を抱えていた。戦前の大規模な網業は、漁船や網具の不足の為、中々復旧せず漁師個々の漁が主であった。不発弾を解体し火薬を取り出してダイナマイトを造りダイナマイト漁が盛んにおこなわれた。サバニにはガソリンエンジンが据付られ糸満の漁の形態が変わっていった。特に米軍から払下げられた、戦闘用ジープのエンジンを改造してサバニに据え付けた。通称四気筒と呼んだ。その後に重量の重い小型ディーゼルエンジンが登場し、故障の多いガソリンエンジンは姿を消した。南洋ハギは重いディーゼルエンジンを搭載すると、喫水が深くなり、水漏れやしぶきで浮力がおちて沈没したりしたので、船底を厚くするために、本ハギと南洋ハギの工法を組み合わせたアイノコーを考案した。世の中が落ち着き、道具や材料(接着材)が調達し易くなると、価格の安い南洋ハギが再度造られた。漁師の漁が向上してきてサバニも大きく造られ、甲板がはられ魚槽を網羅した延縄漁が主体となった

下図はハギンニの種類を断面図で表した。

糸満の成り立ち

幸地腹門中の墓碑に康煕二十三年(一六八四年)に記された碑文に幸地腹八人兄弟と赤比儀腹の三人兄弟が利用していると記されている「市史十三」。小禄間切の大嶺村より糸満に移住して来た赤比儀腹門中の始祖となる上間筑登之は、代々が那覇港の水先案内人であり船の曳航に従事している家柄であった「糸満市史」。それは琉球交易港図屏風等から読み取れる。クリ船による進貢船等大型の船を港に曳航する様子が描かれているような、曳舟を上間筑登之は仕事を行いつつ、それ以外は漁に従事していたものと思われる。その漁は主に清国に輸出する海産物で磯物の海藻や海鼠そして鱶鰭の漁撈に従事していたものと思われる。それが薩摩の侵攻後に海産物の需要が増え糸満の海に海産物を求めてきたのではないか。糸満の海でとれた海産物は薩摩の商人が買い上げて糸満の海の漁が拡大していき他の地域からも人々が移住して来たものと思われる。上間筑登之に勢理宗家の女子が嫁つぎ三人の子供に恵まれた。糸満に最初に住みつていたと思われる勢理宗家は兼城間切の阿波根の子孫であり糸満での勢理宗家の始祖である。糸満に住み着く前は兼城間切の阿波根周辺など小規模な海産物の漁を行いその後薩摩侵攻後の薩摩商人との海産物の取引等で専業の漁を営み糸満に定住したと思われる。小禄間切の大嶺村から移り住んだ上間筑登之は糸満での漁で、磯物の海産物から丸木を刳り貫いた舟(くり舟)を使用して鮫漁を始めたのではないか。同時期に幸地腹門中の五代目上原宗家などの子孫が増え、他の近隣の集落からも人々が移り住むようになって、後に兼城間切で人口が最も多くなり糸満村が出来、殿内屋と神女殿内が配置され兼城間切の糸満村になったと思われる。磯物が糸満の干潟から漁獲が減れば、財を得た人々は、次第に漁の形態を変え丸木舟を利用して換金性の高い鮫漁を始めるのである。鮫漁は鱶鰭を主とした輸出品であり、肝は肝油(方言ではサバンアンダ)にして庶民の生活に必要な灯油として扱われた。魚肉は鮫の種類によるが、食料やかまぼこの原料にしたり、また干物にして非常食にするなど、非常に付加価値の高い漁撈であった。

この様に、糸満の海は漁業の水産資源が豊富に存在し、専業できる地域に発展していくのである。南部一の長い報得川や、地下から湧くミネラル豊富な水は貴重なプランクトンが発生し易く、数々の海洋生物が繁殖しやすい自然環境があった。大潮の干潮時には干潟に酸素が供給され、海水を浄化しプランクトンの繁殖を促し、食物連鎖による水産資源が非常に豊であった。薩摩の侵攻が琉球社会に大きな変化を与え、無人の地であった糸満は、開拓され明、清国に海産物の供給を増やし、それに伴って糸満の漁業が発展確立していくのである。

糸満に移住してきた門中始祖の成り立ち(糸満市史13)

琉球交易港図屏風「浦添市美術館所蔵」進貢船を曳航(淦曳き)するクリ船(マルキンニ)

琉球交易港図屏風に清国から帰港してくる進貢船を一〇隻の刳り舟(淦引)に曳航されて入港する様子とサバニ二隻が帆をかけて出航する様子が描かれている。サバニは刳り舟に比べて大きく、如何にも漁船に思える。那覇港の入り口付近で丁度、小禄側の屋良座森城と三重城に位置している。他に薩摩の貿易船とか那覇舟とよばれる伝馬船、ひした舟等と薩摩の弁才船、ひがき廻船等多様の船が描かれ、当時の那覇港の賑やかな様子を見ることが出来る。

ひした舟(ハギンニ)

上図は琉球王朝時代に伝馬船に使われたひした舟の想像図である。「沖縄群島水産史」に那覇船と称されている中の那覇港内の伝馬船に使われた舟で、小型のひした舟を製作上の観点から寸法を割り出した図である。この形状で原木の寸法で最大製作される船が那覇港内でみられる小禄の落平(うてぃんだ)から水をくみ取る給水舟や大型の伝馬船などとなる。明治時代から昭和初期に那覇港内でとられた写真を参考にする事で形状が解る。1737年における刳り舟の造船の規制後は数多く造られた様に思われ、此の形状がサバニの原型になった様に思われる。

糸満の夏の風物詩フカッキ

(漁場にサバニに帆をかけてイカ漁に出ること。漕いでは遠すぎるのである) 一九六四、五年ごろの糸満の夏は、朝早くサバニのエンジンの音で目覚める。港に入ってくるフカッキブニ(トビイカ漁)の行き交うエンジンの音である。トビイカ漁から帰ってきたサバニが、セリ市場に魚を水揚げをし、自分の船着き場に戻るのである。前日に出漁して、夜半から朝方までイカ漁を行って、漁を終えるのである。糸満から約五十㎞の久高沖が昔からの漁場である。漁獲はバーキ二,三杯分ぐらいで、たまにボーナスみたいなスビ(マグロ)マンビカー(シイラ)、ヒラクサー(メカジキ)をつってくる。ほかに売り物にならない深海魚も釣れた。スビが釣れば漁師も喜びを隠せない。よく売り物にならない深海魚に小骨のおおい魚をカテムン(おかず)にと漁師からよく貰った。食べるとおいしいが、お尻をからさかなのあぶらが出てくる。その年の夏はイカやトビウオを沢山食べたものだ。朝の食事が済んで港の濱に遊びに出た時、漁から帰ったサバニを浜で洗っている光景を目の当たりにする。同級生や先輩たちが一生懸命にイカの墨で汚れた船底やサシカを洗っている。目が合うと恨めし気な顔をした。当時は親は魚を水揚げれば、体を洗って睡眠をとる。あとは子供たちの仕事となる。これが糸満の漁師の家の夏の朝だった。セリ市場でセリ落とされたイカは、カミーアキネーの婦人が売り裁くのである。また魚市場においては、各家庭の親達が魚を買い求めて、食卓に並べる。朝の市場は非常に賑やかである。近隣の農家の人々が取り立ての野菜を売りに糸満の市場の中や、道脇の露店で野菜を売る。午前中に野菜が売れたら、魚市場にいって魚を買って帰るのである。冷蔵庫が無い時代であり、その日に新鮮な魚や野菜が食される。現在の食生活に比較したら不便さ感じるかもしれないが、日にちが過ぎた生鮮食物より何倍もおいしいのである。人々の暮らしに合わせて食文化が変化していくのに、本当の良い食生活がなんであるか、一度は見直す時期である様に感じられる。

デジタルア-ト 帰港

南山時代の糸満の想像図

元糸満町長(大正期)玉城五郎氏著の糸満研究より「糸満漁業の起源」に伝承されてきたもののなかに中国との交易船についての事が記述されている。

「今を(へだた)る五百余年前南山王(北山、中山、南山分裂の時代にして承察度王以下三代五十八年間)の旺盛を極めたる時代には志那(明国の代)との交易船は、この入江(南の潟)と北の奥武湾(報得川の下流にして、奥武とは支那にて港の中の島と云う義此の處に奥武島あり)とに出入りして航海せしは尚ほ中山王の那覇港に依りしが如し。而して南の潟の東部に當る稲嶺毛(今の墓地)は時の倉庫たりしと云ひ亦た其南西に當り高き丘陵は帆の先と(しょう)しその高さが船の帆と同一なりしに()み命名せしと傳えられ、又奥武湾内糸満の北岸に當たり轉馬川と稱する井ありて此の井より伝馬船にて本船(これを唐船と云へり)に水を取りしに因み亦た其の東上部に當り唐船嶽と(しょう)する岩丘あり之れ唐船のと同一高さなりしに因み命名されしと云うが如き其の實跡顕著なるのみならず今を去る三十四、五年の頃、此の近所より甚だ腐食せるを発掘せし入江則ち港湾を有せしが故に漁族の集来せしは魚類学上も疑をるる所にあらずして其の(しょう)()として當時の南の潟・・・」解りやすく説明すると、三山時代の南山は、志那(明国)との交易船は、南潟原の入江と北の奥武湾とに出入りがあった。南山は明国との交易において、糸満が貿易の港口であったとしての記述がされている。南潟原の東部には稲嶺毛(現在上米次腹四門中墓)に当時は倉庫があったという。また現在の糸満市図書館辺り(図参照)の真栄里丘陵地が船の帆柱の高さと同じであった。更に奥武湾の少し上流辺りに唐船嶽という岩石があり、明治の三十四、五ごろに錆びた錨らしきものが発掘されたと言われている。此の岩石が最近まで「唐船崎」といわれ、近辺の住民に言い伝えられてきたとされている。此の伝承はかなり信憑性(しんぴょうせい)が高い。当時の、交易船について記録された文献によると帆柱の高さが、三十mと記述されており、真栄里丘陵の高さも同じ程であるから、糸満の海に交易船が入港したのは間違いがないと思われる。また、轉馬川には井戸があり、水の補給が伝馬船にて、その井戸からなされた。当時の交易船の大きさについての記録が残されている。船の長さ十一丈五尺(三十四・八m)、船幅三丈二尺(九・七m)、船高さ(一丈八尺五・四m)―以上唐船(ジャンク船)十八世紀ごろの記録。船底がひらたく、琉球の馬艦船のカウチー型のような唐船だったように思われる。この停泊が可能である場所は大浜先の内海で干潮になると内海から沖に向かって珊瑚礁が干上がり、天然の防波堤となる。大浜は砂地(クムイスク)であり、船を座礁させて修理が可能である(図参照)。入港はエーンチュ口より曳舟によって、内海まで曳航されたのち投錨して停泊された。明国から輸送された貨物は陶器類、織物、その他の中国産の商品などが伝馬船に積み替えられ潟原の水路から稲嶺毛の倉庫に運搬された。そして空の船倉には輸出品として硫黄、琉球馬、ウコン、海人草、イリコなどの乾物などが積まれた。そして明国の乗員は、帰路の際には、季節風の待機の為、照屋グスクの歓待楼(推測)にて休息をとった。

南潟原地先大浜海岸先の内海

南山時代の糸満沖と報得川流域

5件のコメント

  1. 観ましたよ、大変サバニの勉強になりました。是からも頑張ってください。次も期待しています。やま

  2. 大変興味深いお話有難うございます。
    以前、糸満の漁師がサバニで伊豆・房総の辺りまで行き来していたという事を聞いたことが有ります。
    公式の記録としては残っていないのかもしれませんが、古老の言い伝え、伝説など有りましたら、教えていただくと有難いです。
    小名木善行さんの結美大学〔Google mapで見える、日本列島の下に存在した海洋文明の痕跡〕にコメントしようとして、こちらのサイトに辿り着きました。

  3. 梅田様へ
    コメント頂きありがとうございます。糸満漁師の戦前の県外への漁撈の展開はいたるところに行って居ります。詳しいことについては糸満市教育委員会生涯学習課にて資料が残っていると思います。
    私の母親のいとこにあたる方が八丈島に出稼ぎに行きそのまま永住したそうです。
    アクセス:e-mail shishi@city.itoman.1g.jp
    tel 098-840-8163(内線2963)

  4. 大城さん、サバニを検索していてこの素晴らしいサイトを見つけました。これだけの研究をまとめて公開してくださって、本当にありがとうざいます。私は復帰後生まれのウチナーンチュで、現在ハワイのウチナーンチュたちと一緒にハワイでプロジェクトに取り組んでいます。できましたら、大城さんの公開している資料を参考にしたいので、メールで詳細をご相談できませんでしょうか。ゆたさるぐとぅうにげーさびら。

  5. 小嶺千尋様へ
    コメントありがとうございます。ハワイにて沖縄文化の活動をなされているとの事ですが、ウチナ-ンチュとして誇りに思います。ハワイは行ったことは無いですが、沖縄が本土に復帰する前に、糸満の漁師(ウミンチュ)が数名出稼ぎに行ったことを聞いた事があります。私が住んでいた近所の先輩も行ってそのまま住み着いたようです。
    サバニについて詳しく知りたいの事ですが、サバニについて簡単に説明するにはあまりにも裾野が広く奥行の深い内容になります。どの様な資料を求められるかが分かれば、
    分かる範囲で対応出来ます。
               琉球古代船研究室 大城清信

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です